どうも
本日ついに京都に行けた
やっとです、1年経った お待たせ
というかあれから1年経ったのか
僕はまた一つ年をとって
あまりたくさんじゃないけど
新しい事にもいくつか挑戦したよ
バイトも順調 楽しくやれてる
今までのことで続けてることもあるし
目指す道もなんとなく
迷いはないけど 不安はあって
いろいろあるけど
なにより健康です
またいつ行けるかはわかんないけど
秋の京都は奇麗だっていうもんだからその辺りにしようかなって
まあ気長に待っててよ
家にもたまにはカーネーション飾るよ
…みたいなことを思いつつ手を合わせた
行けてよかった
★
お参りした後は嵐山へ
天龍寺へ行った
たぶんはじめて行った
龍の絵がすごかった
たぶんこれは撮影していいやつ
駄目なやつもあった
とても迫力があってすごかった
しかしこういっては何だがなんだか漫画みたい
昔兄ちゃんが龍を書く練習をしていた
1時間ぐらいでさらっと書いちゃうもんだから
悔しい いいなあとか思った
それはもう7年ぐらい前の話
京都はいい
また行きたい
いくんだけど
★
連休中に岐阜にいくという話がある
あまり乗り気じゃない
金銭感覚がちがうからなあ
ちょっとは気を使って欲しい
年中おんなじ服着てる学生が遠くまで行って
遊ぶかねがあるだろうか
無いに決まってんだろ
憂鬱
せっかく借金も返せそうなのに…
いくら身内とはいえ金は借りると日々が辛い
それが実感できただけでもいいか
バイトが順調だから
お金が貯まったら何か買おう…
とか考えるのが楽しくなってきた
何処まで実現できるか ほほ
★
価値相対性について考える
「正しいか正しくないかはその人それぞれだから決められない」
という台詞を最近聞いた
けっこうなるほど、と思いきや
この台詞は矛盾を孕んでいる
人それぞれ個々の考え方、人生があるのだからその人自身の正義がある
ならば、自分だってその個人という枠組みにいるのだから
結局自分で正否を決めても問題ないのでは?
なぜ自分だけ特別扱い?
こういう落とし穴はけっこうよくある
僕の意見としては
自分で善悪の判断を持てないというのは駄目である
だって自分の意見が無いって… どうすんの 惰性か
問題は意見の表現方法にあるのでは
判断するのはかって 思うだけはいい
でもそれを行動に移すのはちょっと考えなければならない
重要なのはそれなのでは?と思うんです
スローガンみたいにかっこいい言葉を掲げるのはけっこうだが
それが説明できなくては意味が無い
行動に移せない、生き方に反映できない
そう思ったのでした
★
もう暖かいを通り越して
なんだか熱い
気温高いのは苦手だから困ります
はてどうなるか
そういえば京都でイチゴパフェを食べた
観光地のアイスは高い 900円
でもとってもおいしかったからいい
チョコは好きじゃないけど
チョコチップは使い方によってはかなりいけるんだなと
ただアイスの領域がもっと大きいとなおよしだった
若い女の子の店員さんに
イチゴパフェください というのはなんだか恥ずかしかった
店でてすぐなのに
またソフトクリーム屋に目が行ってしまった
そういう季節だから仕方ないのかしら
季節ものだからしょうがないけど
年中イチゴ系のアイスがあればなぁ と
ずいぶん前から思ってる
おしまい


